保育施設「りんごの木」には園庭がありませんが、近くに借りている空き地へ、週に一度遊びに行きます。
ここには既製の遊具はありません。子どもたちは緑に囲まれた場所で、木の実を食べたり、トカゲを捕まえたり、泥だらけになったり、水遊びしたり、火を使ったり、1日中自由に遊びます。
ノコギリや金づちなどの道具を使って工作することもできます。自分のぬいぐるみのためのイスを、真剣な眼差しで、もくもくとつくっている子もいました。
子どもは自分の発達に必要な遊びをする
回答:柴田 愛子さん 子どもが、おもしろそう、かっこいい、こうしてみたいと思った心で感情が動きます。 そのことを、やってみないことには体験につながりません。 やらずにわかるのではなく、やってみてわからないといけません。 子どもは、今自分の発達のために必要なことを、いたずらや遊びを通して経験を積んでいきます。子どもが成長して、いろんなことがわかっていくには、多くの無駄と時間が必要だと思います。
火やノコギリは危なくないのですか?
「危ない」は体験してみないとわからない
回答:柴田 愛子さん 火やノコギリや金づちなど、大人は危ないと言いますが、子どもたちはどう危ないのか知りません。どう危ないのかは、体験しないとわからないのです。 特に、3歳頃から、危険に対してすごい集中力を発揮します。 そのため、金づちで血豆ができた程度ならありますが、ノコギリで手を切るような大けがや火をかぶるような事故は20年来起きていません。 危険なことをしている緊張感は、快感でもあるんです。 そして、ぬいぐるみのイスのように、やりたいと思ったらゼロから自分でつくることができる。そういう体験を大切にしたいと思っています。
※柴田さんによると、火やノコギリを使うのは4歳になってからとのこと。4歳ぐらいから、自分でできるかできないかの判断がつくからだそうです。
最低限の安全を大人が確保するのは大前提
回答:大豆生田 啓友さん もちろん、最低限の安全は大人たちが確保することが大前提になります。 でも、子どもが本当に夢中になっているときは、大きなけがが起きないんです。 木登りでもそういうことがあります。事故は、無理に登らせるなど、無理矢理させようとしたときに起きます。例えば、1歳や2歳の子どもでも、自分がやろうと決めて真剣に何かに登ろうとしていると、あまり落ちたりしないことがわかっています。 もちろん、安全を確保する必要があることには変わりありません。
危険なことをさせるとき、どういうことに気を付ければいいですか?
子どもは自分の力量を超えることはしない
回答:柴田 愛子さん 子どもは大人よりも、本能と感性がはるかに豊かだから、自分の力量を超えることに手を付けません。例えば、滑り台の場合、およそ8割大丈夫と思ったら、滑りおりるための一歩を踏み出します。5割程度では、まだ足を出しません。 ですから、例えば子どもが滑り台を登ろうとしている時に、大人が登らせるような手助けをしてはいけないと思います。それは、力量を超えたことを後押しすることになります。後で困って落ちたりしたとき、大きなけがになります。 大人は辛抱して見守りましょう。「あそこから落ちたら危ないかも」と思ったら、下にある危険物をとりのぞく、受け止められるようにするなどそのフォローをするような見守り方がよいと思います。
遠くまで出かけたときなど、親としてはこの滑り台はここにしかないし、やっておいたほうがいいよと思う気持ちもありますが、子どもが自分で判断するということですね。
やるかやらないか、決めるのは子ども自身
回答:大豆生田 啓友さん やるかやらないかは個人差が大きいと思います。やる子もいれば、やらない子もいます。 特に、積極的ではない子どもの親は、子どもにもさせたいと考えると思います。 でも、それは子どもが自分で決めることです。本人の中でも「やろうか、でも怖いな」と葛藤があります。何かに押されてしまうのは、つらいのです。 本人も滑り台を魅力的だと思っているけど、今はまだ無理だと感じている。親は、その機が熟すのを待つことも大事です。
思い切りぶつかった経験は、いろんなことに向き合う力に
回答:大豆生田 啓友さん 「リンゴの木」は、普通の園と比べて、大胆にいろんなことをやっていると思います。 多くの園も、ここまでではないにしても、自分を出すことを大事にしています。 例えば、どろんこになることは、親からすると洋服が汚れる、衛生面が心配など、困ることがあると思います。でも、子どもは、この時期でなければ経験する機会がないのです。 子どもたちは、思い切り遊んだ後、すっきりとした顔をしています。それは、泥に向かう力だけではなく、今後いろんな物事に向かっていく力にもなります。 「泥だらけはダメ」ばかりになると、本人がやろうとすることを止めてしまうことになります。自分から積極的になることを、学べなくなるかもしれません。
PR